昭和48年03月17日 朝の御理解
真の道の心得 一、「真の道に居りながら真の道を踏まぬ事。」
いと簡単に教えておられますけれども、仲々これが難しい。金光様の御信心に入らせて頂くなら、金光様の御信心ぶりというのが、身に付かなければならない。教祖の神様が教えて下さるこの事を、踏み行うて行かなければならない、日常生活の上に。それは決して難しいことは仰ってない。本気でその気になれば誰でもが、行じられることなのですけれども、信心をさせて頂きながら、いうなら信心の道を体得しようともせず、その道を又歩こうともしない。
お話を頂いて詳しくはなってるけれども、詳しいというだけでそれを生活の上に表して行かない。これでは何時まで経っても、いわゆる真のおかげと言う事につながらない。真の道を私共が分からせて貰うて、真の道を行くからこそ、いわゆる真のおかげが頂かれるんだと言う事です。そんならこれを真の道と云う具体的にね、どういう風に頂いたらいいだろうかと、今日焦点を絞ってね、聞いて頂きたい。
もう十何年も前だったでしょうか、お夢の中に道を歩いておる、そうすると、これは懐中電灯の部品だなと思うのが落ちてるから、それを拾った。暫く行くとまた落ちてる。暫く行くとまた落ちてる。それを全部こうやって集めた所が、いわゆる明りがつく懐中電灯になったと言う様なお知らせであった。信心というものは、例えば分解すると信心させて頂く者は、こうであらなきゃいけんよ、こういう生き方にならなきゃいけないよと、いうなら懐中電灯の部品のような説明を受ける様なものではなかろうか。
だからその一つをおろそかにして頂かなかったら、もうこれは確かに形だけは懐中電灯の形しとるけれど、光にならない。明りにもならないと言った様な、いくら信心したっちゃ本当のおかげにならんというのは、そんなんじゃないだろうか。いわゆる今日私がいうのは真のおかげですよ。どうぞ今日も商売が繁盛しますようにとお願いしたら、商売が繁盛した。どうぞこんな病気ですから宜しくお願いします。
それこそ、医者が見放したような病人がようなった、それこそ盲が目が開いたり、ちんばが立ったりと言った様なおかげは、もうそれこそ沢山皆さんがここでは頂いておる。いわゆる不思議なおかげといい奇跡的なおかげという訳です。けれども、そういうおかげは真のおかげじゃない。真のおかげというのは、人間が真実幸福になると言う事。勿論だから、真の道と仰るのですから、真の道を行けば真のおかげが受けられるという。
ですから教えられておる事です。懐中電灯を作る為にはこういう部品が要るんだ、こういう電池が要るんだ、こういう球が要るんだレンズが要るんだと教えられておる。だからそれをこう拾うていくのである。それが集まったら道をハッキリ分からせて貰えれる。いわゆる明るい道を歩かせて頂く事が出来る。その中の電池なら電池一つ拾わなかったら、もう形の上の物は出来ておってもです、光にならないと言う事になるのです。
だからやはり私共が、やはりここには信心の稽古に来る所と仰る様に、しっかり稽古をさせて頂いて、真の道の条件とでもいうか、それがどんなものであるかと言う事を体得させて貰うて、そしてそれを行じてゆく喜びというか、その有難い事をひとつ体験させて貰わにゃいけん。今日私御神前でね、「押坂忍」というて頂いた。あれはテレビタレントですよね、「QアンドQ」あれの司会者をやってる人なんです。
次にはね、交通安全のテレビでやってる悪魔のお婆さんというのがありますが、あの悪魔のお婆さんの姿と押し坂坂忍と言う事を頂いて、どういう様な事であろうかと私思わせて頂いた。ですからこれはまあ、例え話なんです。ですから、その例え話をね、私共がひとつ例え話と思わずに、ははあ信心ちゃそんなものかなとひとつ体得して貰わにゃいけん。押坂忍と云うのは、例えば坂を登っておる。それに押してでん貰わにゃ登れんという感じ、そこを忍んで行くと言う事。
まあ昨日の御理解からいうと信心辛抱のことです。私は特に若い人達がです、この辛抱力を作らなかったら、人間の豊かさというものは生まれないと思うね。昔から若い時の苦労は買うてからでもせろとこう言われる。だから今日私が言う、例えば腹を立てなさんな、腹が立ったっちゃ言いなさんなと例えば真の道を教えられても、辛抱力がないとそれをすぐ態度に表したり言葉に出したりして、もうその部品一つは取り落としていくのです。だから辛抱力を先ず作らなければならない。
私は今日はその悪魔のお婆さんの場面を頂いてから、まあお道の信心にはサタンもなからなければ悪魔もないとこう言われております。だから例え話なのです。悪魔というのはね、人間が腹を立てたり苦しんだり泣いたり悲しがったりしておる姿を喜ぶのです。悪魔というのはだから悪魔というのです。人が苦しんだと手を叩いて喜びよる、悲しみよると喜びよる。腹を立てたり内輪がもめたり、喧嘩しよるともう手を叩いて喜びよる。私共がです、そういう悪魔に魅入られる様な生活をしておりはせんか。
そして難儀から、何時までも解脱出来ないでおるのじゃないか。もうこの例えを、言うただけでもです、私共がなるほど悔やんじゃならん、不平不足を言うちゃならん、腹を立てちゃならんことが分かるでしょうが。しまいにはですね、どげん悲しいことが起こったっちゃ、ニコニコしとる、どげん腹の立つこと言うたっちゃです、有り難うございますと言いよる、ならもう悪魔の方が、精も根も尽き果てて、もうそげな人には、寄りつかんごとなってくるです。
金光様の信心しよりゃ、段々有難いことが多くなってくると、例えば阿倍野の先生のお話じゃないですけれども、段々信心をさせて頂いておりますと有難いことが多くなってくると言われる。信心は有難うならして頂く稽古なんです。ですから一切を有難く受けようと決められた。例えば阿倍野の先生の場合なんかそうである。ですから、年々有難うあるものは大きくなってゆくし、同時に今度はもう悪魔の寄り付く場が無い。めぐりの寄り付く場がない。難儀なことがもう寄り付かれなくなってくる。
そして有難いことだけが大きくなってくるというのが、信心させて頂く者の世界でなからなきゃならん。まあそんなら私の方を見て下さってもいいです。信心は長いけれども、私がいよいよここで人が助かる様にというおかげを頂く様になって、まあ二十数年、いわゆる有難い事ばあっかりが増えていきよるという感じがします。私は信心をさせて頂くならね、もうそれこそ一年勝り代勝り、昨年よりも今年と言う様にです、有難いことが増えて行くことが楽しみの信心をしなければ駄目だと思う。
それに私共がです、真の道におりながら真の道を踏まない。これが真だと教えられても、その例えば部品を拾うて行こうとしない。そらそうじゃろうばってんと言うて、それをはねのけてゆく。何時迄経っても本当の光になる筈が無い。いうなら、悪魔は虎視坦々として人間が難儀をすることを喜びとしておるのですから。そこでそんなら私共がです、一切を喜びで受けていこう、喜びで受けて行こうと思うておってもやはりそこは生身を持っておりますから。
腹が立ったり有難いどころか反対に有難い反対の結果になったりするのですから、どうしても私共が辛抱と言う事が必要になってくるのです。押し坂忍ぶです。どういうそれこそ、血の涙の出るような時でも、生神金光大神様を唱えさせて頂いて、そこを登って行くと云う生き方を修行としていかなければいけませんことが分かります。辛抱が必要、その辛抱させて頂くうちに人間が豊になる、人間が大きくなる。そこから有難いものに触れていくことが出来る。有難いものが与えられる。
この御教えの前に「幼少の時を忘れて親に不孝のこと」と言う様な御教えがありますねえ。だから親に孝行すると言う事。親に喜んで貰うと言う事はです、その親の喜ぶ姿を見て自分も又喜べるというものが返ってくる程しの親孝行でなからなければ、親孝行にはならん。只親に心配かけないというだけじゃいかん。勿論親不孝なことしたら尚更いけん。だから本当に親の喜ぶ姿を見て、自分にその喜びが返って来る程しのものでなからなければ、親孝行とは言えない。いわゆる親の喜びを喜びとすると云う生き方。
これはそんなら親だけじゃない。人でもよい。人の喜びを自分の喜びとするという生き方。本当に真心を持って親切をする。おかげで助かりましたと喜ぶ。もう自分の事の様に嬉しい。だからそういう喜びがです、募り募って力になるのです。そういう喜びがいっぱいだからこそ、人が腹を立てねばならん時に腹を立てんで済むのであり、人が悔やみよる時にお礼を言うことを段々分からせて頂くのです。
今日はだから、真の道に居りながら真の道を踏まぬ事。真の道を有難く踏んで行けれることを、例えば懐中電灯のお話やら悪魔のお話やらで聞いて頂いた訳です。悪魔は人間が腹を立てたり争ったり、苦しんだり泣いたりしておるのが一番好きなんです。それを見ては手を叩いて喜んで居るのである。ですからそういう例えば、悪魔に魅入られた様な生活をしておる人が世の中にはどの位多いか分かりません。
信心させて頂いて有難い明るい生活をさせて頂くと言う事は、もう悪魔の寄り場が無い。もうあれはどげん腹の立つような事言うたっちゃ、ニコニコ笑っとるから、もう精が無い、もう悪魔の方が精も根も尽き果てる。逃げて行くことになってしまう。そういう道を私は真の道を踏んで行く人の生き方だと云う風に思うです。そしてそこんところを徹底する。だからそれとは反対の事をいうてもいいです。此方の道は喜びで開けた道じゃから喜びでは苦労はさせんと。
昔からいわれるように、「笑う角には福来る。」と、悪魔の反対に福の神が、いわば寄りつこうごとしてならん様になって来る訳です。そういう人そういう家庭には。いつもブツブツいうたり、不平不足を思うたり、喧嘩口論したり、それこそ喜ばなければならん、お礼を申し上げねばならんことに、反対にそれを受けて行くと、言った様な生き方の中には悪魔がついて来る。それとは反対に喜びの家庭には、福の神がついて来るという道理も分かる訳です。
悔やみながら腹を立てながら、どうぞ今日も商売繁盛させて下さいというたって無理だと言う事です。今日は容易う容易うそういうひとつの例え話をもって、真の道にある人はです、信心の道に例えば、いそしませて頂くと言う事は、そういうことを、いよいよ自分のものにして行くと言う事。只そこにです、私は力を頂かなければならんと、為にはひとつしっかり信心辛抱させて貰う。押し坂忍である。
どういう中であっても、そこを辛抱し抜くという、辛抱の徳、辛抱力を頂いて真の道を歩かせて頂かねばなりません。幼少の時を忘れて親に不孝の事。本当にいっちょ親不孝してやろうという子供はおらんけれども、親に本当に孝行するという子供は少ない。信心させて頂くなら、この一事だけでもです、私共が守らせて貰うて親に、いわゆる喜んで貰う。それはその喜びが、自分に返って来る程しの、親孝行でもさせて頂こうという、一念に燃えて来る。
親だけではない。とにかく人の喜ぶことを自分の喜びとさせて頂くような生き方。そういう生き方が先ず自分の心の中に、自分の家庭の中に出来て来るのですから、成程悪魔の寄り付く難儀の寄り付く間が無い。そこにはいよいよ繁盛のことだけ、平穏無事健康のおかげと、もう喜びに満ち溢れた心と家庭とが、又は社会が出来ていくという、そういう道を教えて下さるのが信心であり、それを踏ませて頂くのが真の道であると言う事です。
どうぞ。